大判例

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水戸地方裁判所 昭和32年(行)15号 判決 1963年4月16日

原告 真壁町

被告 筑波町

主文

原告真壁町と被告筑波町との筑波山頂附近における境界は女体山一等三角点を基点として測定された別紙図面表示の(1)、(七)、(六)、(五)、(四)、(三)、(二)、(一)、(八)、(九)、(十)、(十一)、(十二)、(十三)、(十四)及び(30)の各点を順次連結した線であることを確定する。

訴訟費用は被告の負担とする。

事実

第一、当事者双方の申立

原告訴訟代理人は、主文と同旨の判決を求め、

被告訴訟代理人は、(一)原告と被告との筑波山頂附近における境界は女体山一等三角点を基点として測定された別紙図面表示の(1)、(2)、(3)、(4)、(5)、(6)、(7)、(8)、(9)、(10)、(11)、(12)、(13)、(14)、(15)、(16)、(17)、(18)、(19)、(20)、(21)、(22)、(23)、(24)、(25)、(26)、(27)、(28)、(29)及び(30)の各点を順次連絡した線であることを確定する。(二)訴訟費用は原告の負担とする。との判決を求めた。

第二、当事者双方の主張

一、原告の請求原因

(一)、原告真壁町と被告筑波町とは筑波山頂附近において境界を接しているものであるが、明治年間から右境界に関し争論があり、従前数回にわたり原被告間に交渉がなされたが妥協が成立しなかつたので、原告は昭和三二年四月二二日茨城県知事に対し自治紛争調停委員の調停に付するかあるいは裁定をなすべき旨申請したが、被告に円満解決の意思がないため、調停にも付せられず、県知事の裁定もなされなかつた。そのため右境界争論は今日なお未解決である。

(二)、しかしながら原告と被告との右境界は別紙図面表示の(1)、(七)、(六)、(五)、(四)、(三)、(二)、(一)、(八)、(九)、(十)、(十一)、(十二)、(十三)、(十四)及び(30)の各点を順次連結した線と定めらるべきである。右境界線は昔も今も変りなき一貫した物的証拠に基く明確なものであるが、その然るべき理由は次のとおりである。

(1)、先づ沿革的にみるに、古来から原告主張の線が原被告間の境界線として承認されて来た。次の各図面は右事実を明瞭に物語つている。

(イ)、元祿年間作成の真壁、筑波郡境図

(ロ)、明治九年地租改正の際作成された地図

(ハ)、明治二一年四月町村制発布の際作成された地図

(ニ)、下館税務署保管の徴税地図

(ホ)、元参謀本部作成の地図

(2)、次に自然的、地勢的条件をみるに、原告主張の境界線は筑波山の分水嶺をなしている。およそ古来山をもつて国郡町村界を劃するものは、殆んど山の分水嶺をもつて境界と定めるのが一般であつた。ひとり筑波山のみ此の例外ということはあり得ない。

筑波山についても古来分水嶺をもつて境界として来たのであり、右事実は前記(1)の(イ)ないし(ホ)の各図面にも明らかであるが、次の図面もこれを明らかに示している。

(イ)、上古常道六国図

(ロ)、大化始置常陸図

(ハ)、和銅十一郡図

(ニ)、白雉古増十二詳図

(ホ)、養老以降十一郡図

(ヘ)、延喜年間における真壁筑波郡境図

(ト)、京都将軍初代之図

(チ)、常陸郡郷図

(リ)、真壁七郷図

(ヌ)、新常陸国誌上巻

(ル)、水戸地方法務局北条出張所備付の筑波山頂の図面

(3)、又原告主張の境界線には、自然の境界目標が存在する。別紙図面表示の(七)、(六)、(五)、(四)、(三)、(二)、(一)、(八)、(九)、(十)、(十一)、(十二)、(十三)、(十四)、(30)には巨岩怪石等の目標物が存在し、自然に境界を形成しているのである。

古来、国郡町村の境界は、山脈、山岳の分水嶺、岡、川、沼、岩石、大木などを目標として定められることが多く、原被告の境界も右自然的、地勢的条件よりして原告主張線をもつて定めらるべきが相当である。

右各点に存する境界目標の自然的状況は次のとおりであり、各点相互の位置、距離関係は別紙図面表示のとおりである。

(イ)、(一)点には「翁石」と称する大岩石が存在し、その直下は数十尋の断崖となつている。昔は「たわめ石」ともいい、この石の突端に約四寸角位の境界標がある。

(ロ)、(二)点には、これ又「神楽石」と称する千古不変の大岩石が存在し、前記元祿七年作成の図面には「獅子岩」と記されてある。この石は参詣道路に沿つて高さ一丈二、三尺にして古木を背と胸に抱いて自若たるものがある。古来村人はこの奇巌を「ガム石」と称して境界の目標に選んで来た。

(ハ)、(三)点は、曾つて通称「石仏」と称する石碑が存在し、前記元祿七年作成の地図にはそのことが明記してある。往時「仏場」と称し山で死んだ人を葬つた場所である。現在は荒れ果てているが、附近には数年前まで筑波山先達の開祖といわれる筑波太郎の碑が熊笹の中に存在したという。

(ニ)、(四)点には「稲荷石」と称する石が存した。

前記元祿七年の図面には「稲荷石」として記録されているが、現在は同所附近は切り拓かれて現存しない。この石は古く男体、女体山への参詣道路に沿つており、かつ分水嶺上に存するものである。

(ホ)、(五)点には「中央小木立つ塚」があつた。直径二間位の大きさの塚であり男体山峰を指呼の間に望むところである。

(ヘ)、(六)点には、千古不滅の大岩石あり、古来「帽子石」と称した。現在は岩上に高層気象観測所が建つている。

(ト)、(七)点は、帽子石の西方にあり山頂の西端の突角に位する岩石である。名称は存しないが境界目標として恰好の石である。

(チ)、(八)点には、参詣道路に沿い大石があり「魔王石」とも、あるいは俗称「雷神石」ともいう。

(リ)、(九)点には、参詣道路から十数間の高さの所に黒い球状に近い巨岩が存し、通称「大黒石」という。

(ヌ)、(十)点は、「屏風岩」と称する岩石群の先端に存する無名の石であるが、上面は三尺五寸、二尺四寸の矩形をなし、高さ約八尺の四角堆状の岩石である。

(ル)、(十一)点は、「北斗石」と称する石塊である。二つの石から出来ていて入字形に参道上に門の如く覆いかぶさつている。

(ヲ)、(十二)点は、参道の傍らに横たわる高さ約八間、巾約五間の無名の巨石である。

(ワ)、(十三)点は、(十一)点と(十二)点を結ぶ線と六〇度の角度をもつて北西へ走る線と北東へ流れる小沢の中心線との相合する地点である。

(カ)、(十四)点は、右の小沢に沿つて下つた左側に存する巨岩であり、「鏡石」と称するもので、行者の修行する場所でもあつた。

(ヨ)、(30)点は、俗称「三郡塚」という地点であり、筑波、新治、真壁三郡の境界点であつて、営林署の「山二〇六号標石」が存する。

此の地点が境界基点の一つとなるべきは当然である。

(4)、更に、筑波山頂附近における境界管理の状況について述べれば次の如くである。

旧紫尾村大字羽鳥の部落民は、徳川時代から毎年旧九月二八日に一戸から一人宛出て境塚積みと称して羽鳥部落から裏筑波を上り男体女体山間の参詣道路(大体分水嶺に一致する)に沿つて歩き山の下刈りをする等して境界に手入れをし、帰路鞍部にある後述の五軒茶屋に立ち寄り茶菓の接待を受ける慣例であつた。そして右境塚積みは明治の末年頃まで毎年行われたものである。

すなわち、右事実は右参道附近まで旧羽鳥部落の土地であり、原被告間の境界が原告主張線であつたことを物語るものである。

(5)、昔から男体、女体山間の鞍部に休み茶屋があり老翁が住んで田楽、豆腐、夫婦餠を名物として売つていた。店が五軒あつたので「五軒茶屋」と称した。右五軒の茶屋は、いずれも旧紫尾村大字羽鳥部落の土地を借りて営業を営んでいたので、羽鳥部落の者は特に好遇せられたため、此の茶屋のことを別名「羽鳥店屋」とも呼んでいたとのことである。

しかして、右五軒茶屋の経営者は旧紫尾村の役員の所に世話になるからとて、毎年一月始めには必ず年始に来ていた事実もある。

右事実も亦右鞍部付近まで旧紫尾村大字羽鳥部落の土地が延びていたことを物語るものである。

(6)、大正年間原被告間に筑波山頂の境界につき数回にわたり協議がなされた結果、大正八年末頃大体原告主張の(一)ないし(七)点の七つの標石を連ねる線をもつて境界とすることに協定が成立し、右標石上に標柱を建立することになつた。そして当時の紫尾村及び旧筑波町、訴外筑波山神社から関係者が立会い標柱を建立し、それらの標柱は昭和五、六年頃まで残つていたが、その後被告側が勝手に撤去してしまつた。現に前述の翁石、ガマ石、無名石の三個所には標柱の跡が歴然として残つている。

すなわち、原告主張線をもつて原被告間の境界とすることに一たんは協定が成立したのである。

(7)、男体山、女体山間の山頂鞍部の北側に接続した地域一体は旧紫尾村大字羽鳥字深峯と称し旧羽鳥村民の共有地であつたが、共有者は大正一四年共有林三町七反八畝を分割し訴外筑波山鋼索鉄道株式会社へ譲渡した。そして此の分割譲渡に当つては、右売主、買主並びに筑波山神社の神官、総代が立会の上山頂における原告主張の分水嶺を基準として測量分割をなしたのであるところ、当時旧筑波町は右分割に何等の異議もなさずにこれを諒承していた。

しかして、その後訴外筑波山鋼索鉄道株式会社は右買受土地の一部を筑波山神社へ売却しその旨登記済みであり、筑波山神社は現在真壁町に対し固定資産税を支払つている。

以上の事実に鑑みると、被告及び筑波山神社は筑波山頂における原告主張の境界線を暗黙裡に承認したものと推認される。

(三)、被告の主張は総て根拠なきものである。

以上の理由により、原被告間の境界は原告主張線をもつて確定さるべきである。

二、被告の答弁

(一)、請求原因(一)のうち、原告真壁町と被告筑波町とが筑波山において境界を接していること、原被告間において明治年間から右境界に関し争論があり、従前数回にわたり原被告間に交渉が持たれたが妥結をみるに至らなかつたことは認めるが、原告が茨城県知事に対しその主張の如き申請をなしたが調停に付せられず、又裁定もなされなかつた事実はいずれも知らない。

被告としては、特に茨城県知事に対し右の如き申請はしなかつたものである。

(二)、請求原因(二)の原告主張は争う。詳述すれば次のとおりである。

(1)、同上(二)の(1)の、古来から筑波山頂の境界は原告の主張線であつたもので、原告主張の各図面がそのことを物語つているとの主張は争う。

(2)、同上(二)の(2)の、原告主張の境界線は筑波山の分水嶺をなしており、古来山をもつて国郡町村界を定めたものは殆んど山の分水嶺をもつて境界となすことを一般としており、筑波山の場合も此の例外ではありえないとの主張は争う。

原告主張の如き一般原則は認め難いのみならず、右の如きが一般の事例であるとするも、筑波山の場合には後述の如き歴史的特殊性からして分水嶺をもつて境界とする一般原則は該てはまらないのである。右の如き事情からして筑波山の分水嶺をもつて原被告間の境界線とすることは沿革にも反し、具体的妥当性をも有しないのである。

原告は、その主張の(イ)ないし(ル)記載の各図面はいずれも真壁郡及び筑波郡の境界が筑波山の分水嶺を通つていることを明示しているというが、右各図面はいずれも不完全な概略図であるに過ぎず両郡の所在あるいはその間に横たわる筑波山の大略の位置を知り得るにとどまり、分水嶺が右両郡の境界であることを明示するものとなすことはできないのである。

(3)、同上(二)の(3)の、原告主張の境界線には自然の境界目標が存在するから、原被告間の境界は原告主張線をもつて定めるのが相当であるとの主張は争う。

もつとも、原告主張の各地点に原告主張の如き状況の巨岩怪石等が存することは認めるが、それらが古来原告主張の如き通称をもつて呼ばれて来たこと、それらが境石として真壁、筑波両郡境界の標識と見做されて来たとの主張は争う。なお細述すれば次のとおりである。

(イ)、(一)点に原告主張の如き状況の大岩石が存することは認めるが、その余は争う。

筑波山案内記(文化一二年一〇月誌)あるいは筑波山名跡誌(安永二年三月誌)には「翁石」という名称が顕われており、又原告主張の元祿七年作成の絵図には「たわめ石」なる名称が記されてあり、明治九年以降の地図にも翁石なる記載が見える。翁石あるいは「たわめ石」が筑波山名石の一つであることは明らかであるが、原告主張の右大岩石が右案内記等にいう翁石あるいは「たわめ石」であるかは明らかでない。まして境界の標識と観念されて来た事実はない。

(ロ)、(二)点に原告主張の如き状況の岩石が存することは認めるが、その余は争う。前記筑波山案内記によると、神楽石なる記載があるが、原告主張の岩石が右案内記にいう神楽石ないし俗称「ガマ石」と呼ばれて来た石であるかは明らかでない。

(ハ)、(三)点が原告主張の如き状況となつていることは認めるが、その余は争う。 元祿七年作成の絵図に「仏場」と記載されたものがあるが、原告主張の場所が右にいわゆる仏場であるかは明らかでない。まして、原告主張の地点が真壁及び筑波両郡境を形成して来た事実はない。

(ニ)、(四)点附近が原告主張の如き状況であることは認めるがその余は争う。

(四)点附近は御幸ケ原と称するところであるが、昔も今も御幸ケ原に「稲荷石」なる名称の石が存したことはない。まして原告主張の地点が両郡の境界であつた事実はない。

(ホ)、(五)点が原告主張の如き状況となつていること及びその余の主張は争う。

現在塚あり中央に木の立つているが如き状況のものは存しない。境界と目すべき何物も存在しない。

(ヘ)、(六)点に原告主張の如き大岩石が存在し、現在岩上に高層気象観測所が建つていることは認めるが、その余は争う。

この岩は、元祿七年作成の絵図には記載がなく、又古来「帽子石」と称されて来た事実はない。

(ト)、(七)点附近に原告主張の如き状況の岩石が存在することは認めるが、その余は争う。

此の附近には岩石が非常に多く原告主張の石を識別することは困難であり、原告主張の岩石が境界として用いられて来た事実はない。

(チ)、(八)点に原告主張の如き状況の大石が存することは認めるが、右岩石が俗称「雷神石」あるいは「魔王石」と呼ばれるものであるかは争う。

(リ)、(九)点に原告主張の如き状況の巨岩が存在することは認めるが、右大岩石が俗称「大黒石」と呼ばれるものであるかは争う。

(ヌ)、(十)点が原告主張の如き岩石群をもつて構成されていることは認めるが、その余は争う。

この岩石のある附近は、もと「法師ケ岳」と称されていたものであり、原告主張の岩石が境界石と観念されて来た事実はない。

(ル)、(十一)点に原告主張の如き状況の岩石が存在し、右岩石が「北斗石」と称されて来たものであることは認めるが、境界石と観念されて来たことはない。

(ヲ)、(十二)点に原告主張の如き状況の無名の石が存することは認めるが、その余は争う。

(ワ)、(十三)点が如何なる地点に該るかは確定し難い。附近には境界目標と目すべき自然物は存在しない。

(カ)、(十四)点に原告主張の如き巨岩群が存在することは認めるが、右岩石が鏡石と称せられて来たとの点は争う。原告主張の岩石は、行者の修行する場所であり、「護摩壇石」と呼ばれて来たものである。

(ヨ)、(30)点が、いわゆる「三郡塚」という地点であり、筑波、真壁及び新治三郡の境界点であり、営林署の「山二〇六号標石」が建立されていることは認める。

右地点は、被告も亦原被告間の境界地点の一つと主張するものである。

(4)、同上(二)の(4)の主張は争う。

(5)、同上(二)の(5)の主張のうち、男体、女体両峰間の鞍部に休み茶屋があり「五軒茶屋」と称したこと、古図の上で「羽鳥店屋」なるものが存したことは認めるが、その余は争う。

五軒茶屋が一名羽鳥店屋と呼ばれたかは明らかでないが、仮りに羽鳥店屋と称せられたとしても、原告主張の元祿七年作成の絵図には、羽鳥村境は「羽鳥店屋後」と記載されてあり、羽鳥店屋の北側と解せられるのである。そし安永九年刊行の筑波山名跡誌によれば五軒茶屋が筑波山別当の支配下に属していた旨記載されてあるから五軒茶屋附近の土地が旧羽鳥村に所属していたものでないことは明らかである。

(6)、同上(二)の(6)の主張は争う。

原告主張の地点に境界標らしき石柱ないし石柱の跡らしきものが存在するが、これらは旧羽鳥村において旧筑波町と何等協議することなく祕かに建立したものである。その後間もなくして筑波山神社役員がこれを発見して大騒ぎとなり標石を撤去したことがある。従つて右石柱ないし石柱跡は境界の標識となるものではない。

(7)、同上(二)の(7)のうち、男体山、女体山間の山頂鞍部の北側に接続した地域に旧紫尾村大字羽鳥部落の共有林が存在すること、訴外筑波山鋼索鉄道株式会社が大正一四年右羽鳥部落共有の旧紫尾村大字羽鳥字深峯一五五八番の一部三町七反八畝を分筆して買受けたこと、及びその後訴外会社が右買受土地の一部を筑波山神社へ売却し同神社が真壁町に対し固定資産税を納入している事実は認めるが、その余の主張は争う。

しかしながら、右分筆は当時右山林の現地につき測量して分譲を受けたものではなく、ただ単に所轄下館税務署保管の地図に基づき図上分割によつて分筆手続をなしたに過ぎない。当時はかかる図上の分筆手続が一般の例であつた。

しかして、当時右訴外株式会社は前記土地を含む筑波山の裏山を広範囲にわたり冬期はスキー場を作り夏期はグライダーを飛ばすべく伐採した。しかし右伐採地域は原告が主張する前記分筆地の範囲とは異つているのである。又右伐採地は純粋に訴外会社の私有地に属する部分だけであつて、筑波山神社の境内地である筑波町大字筑波一番地に属する地域の立木は伐採しなかつたのである。

従つて、前記分筆地が訴外会社から筑波山神社に売渡され、同神社がその固定資産税を原告真壁町に納付している事実があつても、右事実だけから直ちに被告が原告主張の分水嶺を境界とすることに暗黙の承認を与えていたことにはならない。

三、被告の主張

(一)、原告と被告との境界は、別紙図面表示の(1)、(2)、(3)、(4)、(5)、(6)、(7)、(8)、(9)、(10)、(11)、(12)、(13)、(14)、(15)、(16)、(17)、(18)、(19)、(20)、(21)、(22)、(23)、(24)、(25)、(26)、(27)、(28)、(29)及び(30)の各点を順次連結した線と定めらるべきである。その然るべき理由は次のとおりである。

(二)、筑波山はいわゆる神体山であつて、山全体が神聖不可侵の神域であり、古来筑波郡に属していた。延喜式神明帳によれば「筑波郡二座、筑波山神社二座男神社・女神社」と記載されてあり、右事実が明らかである。

降つて南北朝時代には筑波郡の領主小田天南は現在の三郡塚から石重(いしがさね)の線をもつて筑波領の最低防禦線としたことがあつたが、勿論当時も筑波山の表裏全域が筑波山神社の領域であつた。

更に徳川時代に至るや、筑波山が江戸城の艮の方角に当るところから、江戸城鎮護の御祈祷所の第一とされた。徳川氏は慶長七年一一月二五日筑波山全域を御朱印による免租地として筑波山神社に賜い、知足院をして筑波山別当たらしめ、筑波山全域を支配せしめた。かくして筑波山別当は後に護持院と改まり、更に明治初年の神仏分離後は現在の筑波山神社となつたのである。

以上の如く、筑波山は筑波山神社の神体山であつて、その全域が御朱印地たる神域であり、神聖なる神の宮居として崇められ、何人も人居を構えることは禁忌とされていた。

男体、女体山の登山参拝者のための茶亭も筑波山頂鞍部の御幸ケ原に限つて、筑波陰陽道五行の御神徳を表象した五軒の茶屋が僅かに許可されていたが、同所も餠田楽のほか商なわず日々朝に登り夕に下り通夜することならずと言う如き制約が付せられていた。又参道以外は入山を厳禁し岩洞禅定と称して聖天岩屋を始め山内一九〇余ケ所の禅定所を巡拝する行事も常には参詣を許さず、五月二五日、六月一四日、六月二〇日の三ケ日のみ禅定を許した。

かくの如く、曾つて筑波山別当の支配した領域は、筑波山全域にわたつていたところ、筑波山別当としても筑波山全域では面積が広きに過ぎ、かつ当時山林の価値も極めて低かつた関係上、裏筑波から羽鳥山に接した地域については余り関心がなく放置してあつたため、時代が移るにつれ旧羽鳥村あるいは旧酒寄村の住民が漸次右神域を侵略して来て自己の領域に取り入れる様になつた。そのため神域は次第に侵略せられたが、しかし男体、女体の両峰には古来から御本殿が祭られてあり、中間の比較的平坦な鞍部はいわゆる御幸ケ原と称して神々の会合所であり筑波山神社の支配が極めて明白であつたから、そこまでは侵略して来なかつた。近世に至つても男体女体両峰と中間の鞍部は依然として筑波山神社の支配地であることは確固としていた。

筑波山神社の神域は筑波町大字筑波一番地であり、神域の境するところが、すなわち被告筑波町と原告真壁町との境界である。そして、被告主張線が筑波山神社の右神域の境界をなしているのである。

(三)、しかして、明治年間に至り、旧羽鳥村においては更に侵略地域を拡大して二回にわたり筑波山の裏側の立木を伐採して来た。しかしながら、被告主張の線まで伐採したとき、筑波山神社からの厳重な抗議により遂にその伐採を中止した。しかして、被告主張線の南側すなわち被告筑波町側は古来からの神域として風損木、枯損木のほかは何人にも立木の伐採を許さなかつたし、又明治以後は請願巡査あるいは監視員を置き立木の盗伐を取締つたため数百年を経た楢、ブナ等の大木が生育し原生林の状況を呈しているのに対し、被告主張線の北側すなわち原告真壁町側の地域は約二〇年毎に一回立木を伐採して来ているので、現に一〇年ないし二〇年生の雑木が密生しているに過ぎない。

右大木の区域が筑波山神社が境内地として支配管理した筑波町大字筑波一番地である。

従つて此の大木の生育せる地域と小木の生育せる地域との林相の差による一線が筑波山神社の境内地と原告真壁町大字羽鳥部落との境界線であり、かつ原被告間の自然的境界線でもある。

(四)、筑波山神社の支配した神域は筑波町大字筑波一番地に属するものであるところ、原告主張線と被告主張線とに囲まれた地域は従前筑波山神社が境内地として支配管理した地域である。すなわち、右地域には筑波山神社の末社あるいは摂社が点在するのである。

(イ)、原告主張の(六)点帽子岩は、筑波山神社の摂社「常陸帯宮」の祀られたところである。

(ロ)、原告主張の(八)点は、雷神の窟と称し、筑波山神社の末社があり雷神を祭つてある。

(ハ)、原告主張の(十)点は、法師ケ岳と称し、筑波山神社の末社である安坐常神社が鎮座し、素盞鳴命を祭つてある。

(ニ)、原告主張の(十一)点には、筑波山神社の末社で蛭児命を祭る小原木神社がある。

(ホ)、原告主張の(十二)点には、筑波山神社の摂社があり、月読命を祭つてある。

(ヘ)、原告主張の(十四)点は、「護摩壇石」と称し、筑波山禅定の行者の修業した場所である。

右の如く筑波山神社の末社、摂社の存した場所あるいは筑波山禅定の行つた場所が点在することは、右地域が筑波山神社の支配地に属していたことを物語るものである。

(五)、又筑波山神社は、筑波山頂に所在する建造物等の敷地として境内地の一部を提供賃貸している。すなわち、

(1)、男体、女体両峰間の鞍部に所在する休み茶屋に対し、その敷地を境内地の一部として賃貸している。

(2)、原告主張の(六)点附近に所在する筑波山測候所に対し、その敷地を境内地の一部として明治三四年当時から賃貸して来た。

そして右建物は昭和六年筑波町大字筑波字宮脇一番地の一の地内に所在するとして保存登記がなされている。

(3)、更に近くは警察庁、電信電話公社及び日立製作所に対し無線中継所等の敷地を境内地の一部として賃貸している。

以上の事実よりみれば原被告主張線に囲まれた地域は筑波山神社が従前管理支配して来たことは明らかである。

(六)、のみならず、前記建造物等に対する固定資産税等は従前から被告筑波町が課税し徴収して来た。すなわち筑波山頂に対しては被告筑波町がその区域として行政を行つて来たのである。

(七)、筑波山頂に建造物を有する官庁、公社、会社その他一般住民にとつては、被告筑波町が筑波山頂をその区域として行政を行うことの方が便利であり利益である。すなわち、筑波山頂に建物を有する官庁、公社は被告筑波町内に事務所あるいは職員住宅を持ち、又山頂に茶屋等を所有して営業をする一般住民も殆んど筑波町の住民である。

彼等は被告筑波町と至大な関係がある。若し、原告主張の境界線をもつてせんか、前記建物等の多くは原告真壁町の区域内に入ることになり、前記住民は納税等のため筑波山の裏側へ廻り道して約三里の距離にある真壁町役場へ赴かねばならないこととなり、極めて不利不便となり、住民としては耐え難い苦痛となるわけである。

関係住民は勿論従来どおり筑波山頂を被告筑波町の区域として行政の行使されることを希望している。市町村の区域は住民の便益の如何を充分考慮に入れた上、行政権行使の妥当性の見地から判定されるべきである。

(八)、地方自治法第五条第一項によれば、普通地方公共団体の区域は従来の区域によると定められている。そして右にいう従来の区域とは地方自治法施行当時(昭和二二年五月三日)従前都道府県市町村の区域としていた区域を現在の都道府県市町村の区域とする意味である。

しかして、地方自治法施行前に施行せられていた市制(明治四四年法律第六八号)町村制(同年法律第六九号)の各第一条によると、市町村は従来の区域によると定められてあり、同法の施行される前の旧市制町村制(明治二一年法律第一号)においてはその第三条におよそ市町村は従来の区域を存してこれを変更せずと定められている。更に遡つてみるに、旧市制町村制の施行せられる前は明治一一年七月太政官布告第一七号郡区町村編成法をもつて府県を分つて郡区町村となしたが、その区域を明確に定めたことはなかつた。従つて市町村の境界を法令によつて具体的に区劃したことはなく、総て古来からの沿革に基づく従前の区域を引続いて今日の市町村の区域と定めて来たものである。我が国の町村の境界は徳川時代より自然に出来上り関係住民の承認するに至つたところを、明治初年新たに市制町村制が成立した当時引継いで境界として認めて来たものである。

筑波山神社が境内地として支配管理して来た地域は筑波町大字筑波一番地に所属するものであつて、前述の如く徳川時代から筑波山神社の神域と旧羽鳥村との境界が旧筑波町と旧羽鳥村との境界として承認されて来たものである。しかして原被告主張線に囲まれた地域は、前述の如く沿革その他からして筑波山神社の境内地の一部であり筑波山大字筑波一番地に属するものであつて、被告主張の大木と小木境の線が神域と原告真壁町との間の従来から自然に生じた境界である。しからば被告主張線をもつて原被告間の境界と定めるのが地方自治法第五条の趣旨にも適合するものである。

(九)、なお原告の主張は、明治九年地租改正時作成の地図、下館税務署保管の地図等徴税行政上の図面に根拠する主張の如く考えられる。

しかしながら、右の地図は土地境界裁定の根拠としては薄弱である。

我が国においては土地の境界を定める目的をもつて作成された地図は存しない。(耕地整理や区劃整理を経た土地の場合を除く)

曾つて徳川時代には租税は米納であつたが、明治政府成立に当り明治四年租税権頭松方正義の政府に対する「地租改正意見」の建言によりいわゆる金納制に地租改正をなすことになつた。そこで明治政府は地租改正実施のため明治六年七月から明治一四年までの間に土地については地引絵図を作成したが、右地図が以後徴税行政上の図面の元図となつたのである。

しかし当時維新政府はその基礎も強固でなかつたので、政府の検地員を派して検地せしめるときは、地方の農民を動揺せしめることを慮り現地の農民に自ら作成して提出せしめた。

そして、明治一八年より明治二二年までの間に「地押」と「丈量」とを行つて地引絵図を修正したが、右元図は極めて不正確であつた。これが維新政府の租税の大宗であつた地租制度の基礎となつたのである。しかして、その図面は明治一七年一二月大蔵省達第八九号(明治二二年二月大蔵省訓令第一〇号により一部改正)をもつて税務署と市町村役場が保管することになり、次いで今次大戦後税務署の分は法務局の保管に移つたものである。 以上の経過によつても明らかなとおり、法務局及び市町村保管の徴税行政上の地図は地租賦課の関係から土地の広狭、面積を測定するのが主たる目的であつたから、地租の対象として極めて低価値の山林等については殊に極めて不正確なものが多かつた。従つて右の地図によつて土地の境界を確定することはできない。

原告の主張するところは何等の根拠がない。

(一〇)、しかして、被告主張の(1)ないし(30)の各点相互の位置並びに距離関係は別紙図面表示のとおりである。

(一一)、よつて、原被告間の境界は被告主張線と確定さるべきである。

第三、証拠関係<省略>

理由

一、原告真壁町は、旧真壁町及び旧紫尾村ほか三村とが合併あるいは編入により成立したものであり、被告筑波町は旧筑波町及び旧北条町ほか五村とが合併あるいは編入により成立したものであること、旧紫尾村と旧筑波町従つて原告真壁町と被告筑波町とが筑波山において境界を接していること、そして旧紫尾村及び旧筑波町時代から筑波山頂附近における境界に関し紛争があり、右の如く合併又は編入による新町成立後も原被告間において境界争論が継続していたことは当事者間に争いがなく、成立に争いのない甲第一三号証によると原告において昭和三二年四月二二日茨城県知事に対し右境界争論に関し自治紛争調停委員会の調停に付されたい旨申請したが、同県知事が関係町である被告からの申請がない等の理由から同年七月一五日地方自治法第九条第一項所定の調停ないし第二項所定の裁定に適しないとしてその旨を通知したことが認められる。

なお、いずれも成立に争いのない甲第一六号証の一、二、第一八ないし第二一号証の各一、二、第二五号証の一、二、第三者の作成にかかり特段の反証がないから真正に成立したと認められる同第二六号証の一、二、証人泉栄一(一回)、坂入林太郎(一回)及び来栖鶴太郎(一回)の各証言を綜合すると、旧紫尾村は旧羽鳥村ほか三村が合併して成立したものであるが、旧紫尾村及び旧筑波町間の筑波山頂における境界に関しては、既に大正八年五月頃筑波山神社と旧紫尾村大字羽鳥坪山茂助ほか五六名の共有者との間に神社境内地と右の者ら共有の大字羽鳥一五五八番山林四五町歩余の境界について紛議が生じており一、二度協議が持たれたが解決を見るに至らなかつた。その頃筑波山神社は山頂の境内地に接する共有地が伐採され神域の尊厳に影響することをおそれたためか、大正一三年四月土砂押止並びに風致林を目的として保安林申請をなし、右共有地の一部三町六反歩余が一時保安林に指定されたことがあつた。その頃筑波山鋼索鉄道株式会社が設立され山頂までケーブルが架せられ山頂が漸次開発されるに従い境界確定の議が持ち上り、大正末年頃筑波山神社側、旧紫尾村及び旧筑波町から代表者が集まり暫時原告主張の翁石、神楽石、仏場、稲荷石、塚、帽子岩、無名石の七つの目標を連結する線をもつて境界とすることに協議が成立し、翁石、神楽石及び無名石に堺標として石柱を樹てた。その後数年は小康を保つたが昭和五年五月に至り訴外会社が右稲荷石を移動させ滅失させ更にその頃筑波町側の者が右堺標を撤去したことから再び物議をかもした。そこで当時の紫尾村長泉栄一は、筑波町長原幹寿の立会を求めて右稲荷石の所在した位置を確認し訴外会社社長小林恒三郎にも右位置を確認させ一まず紫尾村主張の境界を保全する措置を講じたが、当時の茨城県内務部長からの勧告もあり旧筑波町を相手取り県参事会へ境界裁定を求めるべく準備中のところ、村会議員のうち筑波町側へ内応する者があつたりして遂に県参事会への裁定申請をなすに至らなかつた。その後国際情勢が悪化しやがて今次大戦となるに及んで右境界争論のことは一時沙汰止みとなつていた。ところが、戦後ケーブルが復活し筑波山が絶景の観光地として、又恰好の電波中継地として着目され、筑波山頂が世人の注目を惹くようになるに従い前記境界争論も再燃され、原告真壁町において前述の如く県知事に対し境界争論裁定の申請に及んだものである事実が認められる。右認定に反する証人飯村四郎(一回)、飯村朝治及び大塚金次郎(一回)の各証言は信用できないし、他に右認定を左右するに足る証拠はない。すなわち、本件境界紛争の経緯につき以上の如き事実が認められる。

二、ところで、地方自治法第五条第一項には、普通地方公共団体の区域は、従来の区域によると定められており、右にいう従来の区域とは、地方自治法施行(昭和二二年五月三日施行)当時において従来都道府県、市町村の区域とされていた区域を指すものである。 しかして、地方自治法施行前の市町村の区域に関しては如何というに、市制(明治四四年法律第六八号)町村制(同年法律第六九号)の、各第一条には市あるいは町村の区域は従来の区域による旨定められ、それ以前の旧市制、町村制(明治二一年四月一七日法律第一号)の第三条には、およそ市町村は従来の区域を存して変更せずと定められてある。すなわち市制、町村制施行の際に特に廃置分合又は境界変更の手続を行つたものの外は従来の区域をそのまま踏襲する立前であつたのである。しかして、市制、町村制の施行前における町村の区域は、郡区町村編成法(明治一一年七月二二日太政官布告第一七号)によつて定まつたものであり、法制上市町村の区域はこれを基礎とするわけである。しかし、右の郡区町村編成法も新たに町村を創設したものではなく、従前から地方団体として存続していたもの、その伝来的な区域として定まつていたものに従つて新制度を作つたものに外ならないから、その区域に疑のある場合には結局旧幕時代まで遡らねばならないであろう。従つて市町村の区域あるいは境界の確定にあたつては、従前の地方団体の廃合の経過、伝来的な区域の変動の経緯等の沿革について検討しなければならない。

以上の如く、市町村の区域、その境界は、絵図、公図、記録等によつて認識される伝来的な区域の変動に関する沿革から判定されるべきであるが、右に関聯して次の点が勘案されねばならないであろう。すなわち、市町村の区域は、論ずるまでもなく、市町村の行政権行使の地域的対象であり、その客体であるから、その区域を限界付ける境界は、識別の明確なることが要請される。これ従来市町村の境界が、多く山岳、分水嶺、湖沼、河川等の地勢上の特性、巨岩怪石等自然物を目標として定められてきた所以である。従つて境界不分明につき新たに境界線を裁定ないし確定するについては、右の自然的条件を考慮に入れるのが相当である。

又、市町村の区域は、前述の如く地方公共団体の行政権行使の客体であり、市町村の境界はいわば右行政権行使の地域的限界付けをなすものであるから、市町村の境界確定に当つては関係市町村の従前の行政権行使の実状はもとより、広域地方公共団体である都道府県の関係機関あるいは国の関係行政機関における当該係争地域に対する従前の事務処理の実状が考慮せられねばならない。

又更に市町村の区域は、その変動の如何は直ちに当該地域の住民の福祉に影響するところが多いから、その区域の変動を招来する如き境界の裁定ないし確定に当つては、一方においては行政権行使の便宜の点から、他面住民の社会、経済上の便益の点を勘案して総合的な展望的な見地からする資料をも加味して決定されなければならない。

よつて、以下右の各見地からする資料を順次検討して本件境界争論の解決を図ることとする。

三、先ず旧羽鳥村及び旧筑波町間の境界に関する歴史的沿革について検討する。

(一)、いずれも成立に争いのない甲第一号証の一ないし一〇(新編常陸国誌上巻附属図面)によると、上古においては常陸国真壁郡と筑波郡との境界は、筑波山を東西に渡る線をもつて境界線とされていたことが認められ、右認定に反する証拠はない。もつとも、原告は右境界線は筑波山頂の分水嶺を走る線である旨主張するが、右の書証からは右両郡の境界が筑波山を東西に渡る線であることの大略がわかる程度であつて、右境界線が原告主張の如く分水嶺であることを確認できるものではない。

(二)、前記証人泉栄一の証言(一回)によれば、それが元祿年代以降旧羽鳥村有志の家に保存されて来た絵図であることが認められ、特段の反証もないから真正に成立したものと認められる甲第二号証(元祿七年作成絵図)によると、元祿年間においては旧羽鳥村民は男体山西北側の駒返石(その石が現在どの地点に所在するかは不明である)から男体山の麓を廻り山頂鞍部の「羽鳥店屋後」の地点に出て、東方へ稲荷石、仏場、獅子石の各点を経て、女体山下のたわめ石に至り、魔王石、あざとく石、なみつき石を通り東北部の沢に沿つて下り鏡石に至る線をもつて筑波境と観念していた事実が認められる。

しかして、成立に争いのない乙第二九号証(貞享五年二月二五日付作成図面)によれば、筑波山の男体山西側附近の境界につき前掲甲第二号証における男体山附近から駒返石とおぼしき地点を通り北へ下る線をもつて旧酒寄村方面から見た羽鳥境として記載してあることが認められるが、右記載をもつてしても前記認定を補いこそすれ、右認定を左右するに足りない。又成立に争いのない乙第三八号証の一ないし四(新編常陸国誌巻の二)によると、中山信名著、栗田寛修補にかかる新編常陸国誌巻の二には、新治郡の条下に、「新治郡ハ其ノ地西ハ筑波山下ニ至リ、真壁、筑波二郡ニ界ヒ西南ハ信太、河内二郡ニ錯リ………」と記載され、又真壁郡の条下においては、「真壁郡ハ其ノ地東ハ足尾加波ノ諸山ヲ以テ新治郡ヲ限リ、西ハ絹川ヲ以テ下総結城ニ果シ……東南ハ筑波山下ニ至リ………」と記載され、更に筑波郡の条下においては、「筑波郡ハ其ノ地北ハ真壁郡ニ接シ東ハ新治、河内二郡ニ相錯リ……」と記載されてあることが認められ、右記載からするとあたかも新治郡、真壁郡はいずれも筑波山麓が郡境であつたかの如く読めるし、又証人青木芳郎(二回)も右趣旨の供述をするのであるが、文書の形式や趣旨から見て、右新編常陸国誌は、常陸国の成立等の沿革、地誌の大要を叙述することを目的として編纂せられたものであることが推認されるから、右各記載は新治、真壁二郡が単に筑波山にまで延びている事実を叙述したに過ぎず郡境につきこれを論じ新治と筑波両郡あるいは真壁と筑波両郡の郡境が筑波山麓をもつてせられていることを表現したものとは速断し難く、右の如き記載をもつてするも前記認定の妨げとはならない。そして、成立に争いのない乙第二八号証(元祿七年一一月一四日付作成絵図)の描載するところによつても前記認定を左右するに足りないし、他に前記認定を左右するに足る証拠はない。

前記事実からみると、旧幕時代においては旧羽鳥村民は右認定の線をもつて旧筑波村との境界として観念して来たものであることが推認される。

(三)、前記証人泉栄一の証言(一回)によれば、それが明治九年地租改正当時に作成された絵図であつて、旧羽鳥村役場備付のものであることが認められ、特段の反証もないから真正に成立したと認められる甲第三号証の一、二(茨城県管下第六大区四小区真壁郡羽鳥村絵図)によると、旧酒寄村との境界点をなすとおぼしき無名の石から東方へ男体山附近の帽子石、中央小木立つ塚、稲荷石、石碑ある地点、神楽石の各点を通り女体山附近の翁石に至り、魔王石、大黒石の傍に出て、やがて方向を転じ上面巾二尺五寸、高さ三尺五寸大の無名石、北斗石を通り更に方角を西北へ変じて走る線をもつて囲まれた地域を、旧羽鳥村字月ノ子一五五番地、字(深峯)一五五八番地及び字三ノ輪一五五七番地と描載してあることが認められる。

又、同証人の証言(一回)によれば、明治二一年七月町村制発足当時作成された羽鳥村字図であり旧羽鳥村役場備付のものであつたことが認められ、特段の反証もないから真正に成立したと認められる甲第四号証の一、二(明治二一年七月作成羽鳥村字図)によると、旧椎尾村、旧酒寄村及び旧羽鳥村の境界点である三角石から南へ向つて登り石積(いしがさね)を経て無名の石に至る線をもつて旧羽鳥村と西側旧酒寄村との境界を限り、右無名の石から東方へ向い男体山附近の帽子石、中央小木立つ塚、稲荷石、石碑、神楽石の各地点を経てやや南方へ湾曲する如く進み女体山下の翁石に至り、魔王石、大黒石を通り方向を変じ北斗石を経て更に鋭角をもつて方向を北西に転じて進み再度方向を北東へ変じて走り旧筑波町、旧小幡村及び旧羽鳥村との境界点に至る線をもつて旧筑波町との境界を限り、右線をもつて囲まれた北側の地域を旧羽鳥村字深峯一五五八の一、及び字三ノ輪一五五七山林官有地として描載してあることが認められる。

以上の事実からみると、明治初年から町村制施行当時においては、旧羽鳥村は前記男体山西側の無名石から東へ帽子石、中央小木立つ塚、稲荷石、石碑ある地点、神楽石、女体山附近の翁石、魔王石、大黒石、上面巾二尺五寸高さ三尺五寸大の無名石、北斗石の各地点を経て進みややあつて鋭角をもつて方向を北西に転じ更に北東して下り旧筑波町、旧小幡村及び旧羽鳥村の境界点に至る線をもつて旧筑波町との境界と観念していた事実が認められる。もつとも、右二つの絵図及び字図はいずれも精密なる測量に基いて境界確定の目的をもつて作成されたものとは認められないけれども、当時の旧羽鳥村における筑波山附近の行政区域の大略を知るに十分である。しかして、旧紫尾村あるいは旧筑波町に関して市制、町村制施行の際廃置分合又は境界変更の手続が行われた形跡はなく、しかも右羽鳥村の行政区域に対応する旧筑波町側の字図等の行政区域を識別できるに足る資料が分明でない本件においては、羽鳥村の行政区域を限定する前記認定の線が当時旧筑波町と旧羽鳥村との境界線であつたと推認するほかはないであろう。

(四)、更に、前掲甲第四号証の一、二に証人来栖鶴太郎(一、二回)坂入林太郎(一、二回)の各証言を綜合すると、旧羽鳥村の筑波山北側に接続する地域は、前記の如く西から順に字月ノ子、字深峯、字三ノ輪及び字土俵場となつているのであるが、右のうち字三ノ輪及び字土俵場一帯は国有林となつており、字深峯一五五八番の山林はかつて旧羽鳥村民五七名の共有地であり、その南側の境界線は筑波山頂の翁石から帽子石の西方無名石に至る間の参詣道に沿つているものと伝えられて来たから右共有者である部落民は、毎年旧九月二八日境塚積みと称して字土俵場から筑波郡、新治郡及び真壁郡の境界点である三郡塚に至り、そこから国有地との境をなす塚の破壊されたところを手直しながら女体山の翁石に向つて登り、翁石から神楽石、石碑ある地点、稲荷石、中央小木立つ塚まで参詣道を歩いて境界を確認し、同所附近に所在した五軒茶屋に到つて休息し馳走を受けるという行事を行つてきたこと、そして右の如き年中行事は旧幕時代から明治末頃まで行われてきたが、その後はいつしかすたれてしまい右の如き行事が行われなくなつた事実が認められる。右認定に反する証人飯村四郎(一、二回)、飯村朝治、及び大塚金次郎(一回)の各証言はにわかに信用し難く、他に右認定を左右するに足る証拠はない。すなわち、右の共有者であつた旧羽鳥村民は曽つて数百年にわたり筑波山頂の翁石から中央小木立つ塚に至る区間を右共有地である字深峯一五五八番の南側の一部として境界管理を行つてきたことがある事実が認められるわけである。

(五)、以上のほかその後の沿革に関して斟酌すべき資料としては、次の如きものがある。すなわち、

(1)、いずれも成立に争いのない甲第八号証、第一四、第一五号証の各一、二、及び第一七号証に前記証人泉栄一(一回)の証言を綜合すると、旧日本陸軍参謀本部陸地測量部作成の筑波山附近の地図は、明治三八年頃の実測、大正六年の修正測図により製図されたものであるが、行政上の境界線は測量当時紫尾、筑波両町村の境界調査立会人の立会の上実地調査して決定作図したものであること、右参謀本部の地図によると、筑波山における紫尾村及び筑波町の境界は男体山から女体山に至る尾根の線に沿つて北側に湾曲して走り、女体山から真壁、新治及び筑波三郡界をなす地点まで尾根の線を走る如く記載されていることが認められ、右認定に反する証拠はない。

これに現地検証の結果(一、三、四回)を対比すると、原告主張の線は概ね右地図描載の線に合致すること、就中男体山、女体山間の(七)、(六)、(五)、(四)、(三)、(二)及び(一)点を連結する線は右地図描載の男体山、女体山間の線によく合致することが認められるが、被告主張線は殆んど右地図描載線とは符合しないことが認められる。

(2)、次に前記一、記載の各証拠に前掲甲第一二号証の一ないし七、証人飯村四郎(一回)及び飯村朝治の各証言の一部並びに現地検証の結果(一、三、四回)を綜合すると、本件境界争論の過程において前記一、に認定の如く一度は当時の紫尾村、筑波町及び筑波山神社との間に境界の協定が成立し、翁石、神楽石、石碑のあつた地点すなわち仏場、稲荷石、塚、帽子岩、無名石の七つの目標を連結する線をもつて境界とすることとし、両者立会の上翁石、神楽石、無名石に石柱を樹てたが、後に筑波町側に異議が生じ筑波町側の者によつて勝手に右各石柱が撤去された事実が認められる。右認定に反する証人飯村四郎(一回)、大塚金次郎(一回)及び飯村朝治の各供述部分は信用しないし、他に右認定を左右するに足る証拠はない。

(六)、以上(一)ないし(五)に認定の各事実を綜合すると、旧真壁郡羽鳥村と旧筑波郡筑波町との境界は、旧幕時代から明治年間に至るまで、そして昭和初年において境界争論発生に至つた当時においても、男体山西側の無名石から東方へ帽子石、中央小木立つ塚、稲荷石、石碑ある地点、神楽石、女体山附近の翁石、魔王石、大黒石、上面巾二尺五寸高さ三尺五寸大の無名石、北斗石の各地点を経て進みややあつて鋭角をもつて方向を北西に転じ更に北東に走つて下り旧筑波町、旧小幡村及び旧羽鳥村の境界点に至る線をもつてなされてきたものと推認することができる。

もつとも、いずれも成立に争いのない乙第三〇号証の一、二、三、第三一号証、第三三号証、第三四号証、第三五号証の一、二、三、第三八号証の一、二、三、四、いずれも第三者の作成にかかり弁論の全趣旨からみて真正に成立したと認められる乙第三二号証の一、二、三、四に、証人青木芳郎(一、二回)、飯村四郎(一、二回)、鈴木達衛、渡辺潤及び石井暉雄の各証言を綜合すると、筑波山は、古来いわゆる神体山であつて、山全体が信仰の対象であり、神聖不可侵の神域と考えられて来た。従つて何人も人居を構えることは禁忌され、男体、女体山の登山参拝者のための茶亭も筑波山頂鞍部の御幸ケ原に限つて、筑波陰陽五行の御神徳を表象した五軒の茶屋が僅かに許可されていたが、同所も「餠田楽のほか商なわず日々朝に登り夕に下り通夜することならず」と言う如き制約が付せられていた。又参道以外は入山を厳禁し、岩洞禅定と称して山内数十箇所にある嶮岨なる岩洞をなしている禅定所を巡拝する行事も常には参詣を許さず、昔は五月二五日、六月一四日、同月二〇日の三ケ日のみ弾定を許したに過ぎなかつた。かくて筑波山は、その全域が神社の神域として取扱われて来たのであるが、南北朝時代に至り筑波郡小田の領主小田氏が支配し、小田天南が現在の三郡塚から前記石積の線をもつて北朝方に対する筑波領の最低防禦線としたことがあつたので、当時神域の北限は三郡塚及び石積の線と考えられたことがあつた。降つて徳川時代には、筑波山が江戸城の艮の方角に当るところから、江戸城鎮護の御祈祷所の第一とされた。徳川氏は慶長七年一一月二五日筑波山全域を御朱印による免租地として筑波山神社に賜い、知足院をして筑波山別当たらしめ、筑波山全域を支配せしめた。かくして筑波山別当は後に護持院と改まり、更に明治初年神仏分離後は現在の筑波山神社となつたものであること、しかして係争線内の前記帽子石には筑波山神社の摂社「常陸帯宮」が祀られ、前記魔王石には筑波山神社の末社があり、前記の上面巾二尺五寸高さ三尺五寸大の無名石の附近には筑波山神社の末社である安坐常神社が鎮座し、前記北斗石には筑波山神社の末社である小原木神社があり、前記の「更に進んで鋭角をもつて北西に方向を転ずる箇所」の無名石には筑波山神社の摂社があり、前記の「旧羽鳥村、旧筑波町及び旧小幡村との三村境界点に至る」途中には巨岩が存在し護摩壇石と称する筑波山禅定所があり、又、筑波山神社の境内地は風損木、枯損木のほかは何人にも立木の伐採を許さず旧幕時代において護持院支配の頃は山役人をして見廻らせ村民の盗伐を監視し、降つて明治以降は請願巡査あるいは監視員を置き立木の盗伐の取締りや山火事発生の防止につとめてきたのであるが、係争線内の地域も右の如く伐採を禁じてあつたから数百年を経たブナ等の大木が生育している(もつとも細部については後述四記載のとおりである)のであり、かくて筑波山神社は従来から原被告主張線内の地域は筑波山神社の境内地として管理してきたものであること、そして、筑波山神社は自己の所有境内地はすべて旧筑波郡筑波町大字筑波一番地に所属するものと観念してきた事実が窺えるのである。けれども、一般に私有地の範囲あるいはその境界の問題と行政区域あるいはその境界の問題とは次元を異にするのであり、私有地の境界が常に行政区域の境界に合致すると断ずることができないことは明らかであり、以上の事実は筑波山神社ないしその私有地である境内地の沿革に関するものであるに過ぎないから、右の事実があるからといつて旧幕時代から明治年間に至る行政区域の変遷、沿革に就き前記の如く認定することに何ら妨げとなるものではない。

(七)、以上の事実に、証人坂入林太郎(一、二回)、来栖鶴太郎(一、二、三回)及び泉栄一(一、二回)の各証言、鑑定人菊池英雄の鑑定の結果(一、二回)並びに本件現地検証の結果(一、三、四回)を綜合すると、前記(六)において認定した字図中の男体山西谷の無名石は、別紙図面表示の(七)点に、帽子岩は同上(六)点に、中央小木立つ塚は同上(五)点に、稲荷石は同上(四)点に、石碑ある地点は同上(三)点に、神楽石は同上(二)点に、翁石は同上(一)点に、魔王石は同上(八)点に、大黒石は同上(九)点に、上面巾二尺五寸高さ三尺五寸の無名石は同上(十)点に、北斗石は同上(十一)点に、北斗石から更に進んで鋭角をもつて方向を北西に転ずる箇所は同上(十二)点の無名石に、再び北東して下る道に沿う各地点はそれぞれ(十三)点の沢の中心点、及び(十四)点の鏡石に相応する地点であることが認められる。右認定に反する証人青木芳郎(一、二回)、飯村四郎(一、二、三回)、渡辺潤及び石井暉雄の各供述部分は信用しない、他に右認定を左右するに足る証拠はない。

四、次に、係争線附近における地勢上の条件あるいは自然的条件について検討する。

前記証人泉栄一(一回)の証言によりいずれも真正に成立したと認められる甲第一二号証の一ないし七、成立に争いのない乙第四一号証に証人泉栄一(一回)、来栖鶴太郎(一、二回)及び坂入林太郎(一、二回)の各証言並びに現地検証の結果(一、三、四回)の結果を綜合すると、

(1)、原告主張の(一)点翁石の地点は、南北約一三尺、東西約一〇、八尺、高さ約八尺に及ぶ大岩石であり、この北々東側は殆んど垂直をなす絶壁となつていること、

同上(二)点神楽石の地点は、参詣道の稜線の北側にあり、目通り周囲約三尺の木に支えられ、表側より見れば三つの岩石が重り合つてできたかの如く見受けられ、その形状は恰も神楽獅子あるいはガマとも何れにも似通つており、これを後側より見るときは一つの大岩石からできているとも思われる東西約四尺、南北約七尺、高さ約八尺に及ぶ奇岩であること、

同上(三)点石碑のあつた箇所は、現在小石が数箇あるのみで、曽つて石碑が倒れていたような形跡もなく、当該地点の特徴を示す何ものも存しないこと、

同上(四)点稲荷石の地点は、筑波山鋼索鉄道株式会社の山頂駅前四間の地点であるが、全く平坦地となつて曽つて稲荷石の存在した形跡は窺えず、当該地点の特徴を示す何ものも存しないこと、

同上(五)点「塚あり中央小木立つ」地点は、幸雲亭と称する休茶屋の前六尺二寸の地点であるが、既に塚のあつた形跡はなく平地であり、当該地点の特徴を窺うに足るものは何もないこと、

同上(六)点帽子岩の地点は、周囲は概ね岩石であり、筑波山気象観測所の土台をなす岩石群の二つの突角部に当る。向つて右側の突角は高さ約四尺五寸、巾二尺七寸、奥行約一尺三寸であり、左側の突角は高さ約四尺二寸、巾三尺七寸、奥行約二尺五寸となつていること、

同上(七)点無名石の地点は、筑波山頂西端に突出した岩石群の一つであり、高さ約五尺七寸、巾約五尺三寸の岩石となつており、この岩石にくつついて西側に高さ約二尺五寸、切口の直径一尺二寸の桜の切株が存すること、

同上(八)点の魔王石の地点は、(一)点翁石から参詣道を東南方へ約三三間降つた南側の地点であり、略垂直に聳える高さ約六間、巾約五間の一枚板の大岩石で、その上部は約二間四方の広さがあること、

同上(九)点の大黒石の地点は、女体山頂の東南方そして魔王石の南西方に位置し山腹に突出した大岩石であり東南に向け先端は球状をなして聳えている。附近は嶮岨にして容易に近づき難い箇所であること、

同上(十)点無名石の地点は、やや小高くなつた岩山となつていて一見台地状をなす、俗称屏風岩と称する岩石の突出部であり四囲の眺望が開けている。この台地上の比較的整つた四角堆状の岩石が右の「無名石」であり、上部の広さ南北約三尺五寸、東西約二尺六寸、底部の広さ南北約六尺、東西約五尺、高さ約八尺の大きさであること、

同上(十一)点北斗石の地点は、参道上に跨つて位置する二つの岩石よりなる巨岩である。西方より臨むとき、入の字形に門の如く参道に掩いかぶさつており、右手の岩石は高さ約四間、底部の周囲約五尺、左手の岩石は高さ約二間、底部の周囲約四間の大きさがあること、

同上(十二)点の無名石の地点は、高さ約三間の円筒状の岩石をなし、この岩石の上は紅葉、ぶなの木が生立し、その間に熊笹に囲まれた高さ約三尺一寸、上部の広さ約一尺八寸に約一尺四寸大の岩石が突出していること、

同上(十三)点の地点は、前記(十一)点及び(十二)点とを連結する線に対し西北方へ六〇度をなす線と北斗石近くから発して北流する沢の中心線との交叉点であり、流れの中にみかげ石の小石が散在するが、この地点の特徴を示すべきものは何もないこと、

同上(十四)点の鏡石の地点は、岩窟状をなした、みかげ石の大岩石であり、高さ約六間、巾約三間半の比較的丸い巨岩であり、附近は山道も起伏が多く嶮岨であること、

同上(1)点は、前記(七)点の西南方へ雑木林の中を進んで小高く丘陵状をなす地点である。この一番小高くなつたところに営林署山二六四号標識が存在する地点であること、 同上(30)点の三郡塚の地点は、前記鏡石から西北へ急坂を降つた地点であり、小高く塚らしく土盛りされ、営林署の山二〇六号標識が存在すること、

すなわち、原告主張の(一)、(二)、(六)、(七)、(八)、(九)、(十)、(十一)、(十二)、(十四)の各点にはそれぞれ原告主張の如き巨岩、怪石等が存在し、万古不動の境界目標物として恰好のものであること、

これに対し、被告主張点を見るに、(1)点は前記のとおりであり、(2)、(3)、(4)、(5)、(6)、(7)の各点には当該地点の特徴を示すものは何も存在せず、(8)点に至つて始めて上面の巾約一八尺、高さ二三尺に及ぶ、俗にかぶと岩又はえぼし岩と称する巨岩となること、(9)、(10)、(11)、(12)、(13)の各地点はいずれも当該地点の特徴を示すものは何もないこと、(14)点は日立マイクロウエーブ中継所の北方斜距離約二〇間に位する径約四尺の岩石の根元に当る地点であること、(15)点にも見るべき特徴はなく、(16)点は南北約一四尺、高さ約八尺の岩石をなしていること、(17)、(18)の各地点も見るべき特徴はなく、(19)点は附近の尾根上の一点であり、(20)点は(19)点を東方へ少し降つた所のぶなの古木の根元に当る地点で、近くに筑波山頂の関東管区無線中継所から足尾、加波山に通ずる巾約四尺の山道が通つていること、(21)点は(20)点からかなりの急坂を東方に降つた沢状の地点であり附近には大きな岩石が点在すること、(22)点は(21)点から北方に沢を降つた中腹の径約三尺のぶなの大木の根元に当り、(23)点は(22)点から岩石累々たる沢を降り中腹に存する巾約三間、高さ約一間半の屏風のように切り立つた巨岩の西側根元に当ること、(24)点はぶなの大木の根元にある巾約一丈の岩石の南側根元に当ること、(25)、(26)の地点はいずれも大岩石となつているが特徴と目すべきものはなく、(27)点の地点は巾約二間の大岩石の北側根元に当るが特徴と目すべきものはなく、(28)点の附近は岩山をなし、(29)点は(28)点から急坂を降つた大岩石上に生立する松の根元に当るが、いずれも特徴と目すべきものはないこと、(30)点は前述のとおりであること、すなわち、被告主張線は(8)点、(14)点、(16)点、(23)点等の地点にいずれも巨岩が存するが、(8)点を除いては当該地点の特徴を示すものに乏しいこと、

(2)、更に原被告双方主張の境界線の概況を観るに、原告主張の(1)、(七)、(六)、(五)、(四)、(三)、(二)、(一)、(八)、(九)、(十)、(十一)、及び(十二)の各点を結ぶ線は、概ね筑波山頂を男体山から女体山にかけ東西に走る尾根の線に合致しており、そのうち(1)、(七)、(六)、(五)、(四)、(三)、(二)、及び(一)点を結ぶ線は山頂鞍部を東西に縦走する分水嶺の一部をなしており、(八)、(九)、(十)、(十一)及び(十二)の各点を結ぶ線は筑波山頂の南側の稜線の縁辺の一部を形成している。又(十二)点から(十三)、(十四)の各点を経て(30)点に至る線は筑波山北側を北東へ降下する線であり、北斗石附近に源を発し同方向へ流下する沢の線に一部沿つている。

そして、被告主張線は、筑波山の北側山胸部を縫つてやや東西に縦走する線であり、(1)、(2)、(3)、(4)、(5)、(6)、(7)、(8)、(9)、(10)及び(11)の各点を結ぶ周辺は、林相の差異など記すべき特徴を見ないが、(11)、(12)、(13)、(14)、(15)、(16)、(17)、(18)、(19)、(20)、(21)、(22)、(23)、(24)、(25)、(26)、(27)、(28)、(29)、(30)の各点を結ぶ線の南側は概ねぶなの原生林であつて大木となつており、北側は雑木の錯る比較的小木であつて、南北両地の間に僅かながら林相の差異が存することが見られ、それらが比較的よく両地を分界する一線を劃していること、

以上の事実が認められる。しかして、町村境は前述の如き理由により外部からの識別の明確なることが要請されるとするならば、前記認定の如く地勢上の特性、境界標識として恰好な確固不動の自然石等が存在することから考えると、原告の主張線をもつて勝れりとするのが相当である。

五、進んで、筑波山頂における従前の行政権行使の状況について検討する。

(一)、いずれも成立に争いのない乙第一ないし第三号証、第四号証の一ないし五、第五号証の一、二、第六号証の一、二、第七号証の一、二、第八ないし第二五号証に、証人鮏川健次、田上憲、海老沢要吉、関千代、梅田長造及び吉原秀雄、大塚金次郎(一、二、三回)及び青木芳郎(一回)の各証言を綜合すると、筑波山神社は従前から筑波山頂における土地は筑波町大字筑波一番地の境内地に属するものとして、明治三四年一〇月山階宮に対し気象観測所敷地として前述帽子岩近くの土地八五坪を無償で貸付け、引続いて現在気象庁に貸しており、昭和二六年六月東京警察管区本部に対し神楽石近くの土地八九坪を筑波山超短波中継局舎等の敷地として無償で貸付け、引続いて現在関東管区警察局に使用貸借中であり、昭和二九年二月株式会社日立製作所に対し鶺鴒岩と神楽石の間の土地五四坪を無線通信中継所敷地として無償で貸付け現在引続いて使用貸借中であり、同年九月日本電信電話公社に対し前記石碑跡近くの土地五七〇坪を送受信機塔等の敷地として無償で貸付け、引続いて現在使用貸借中であるが、右建物の建設、あるいは所有に対する行政上の必要措置は総て被告筑波町が取扱つてきたことと、又筑波山神社は大正の初頃から山頂鞍部の御幸ケ原周辺の土地を訴外関松五郎、関市郎、稲葉秀三郎、鮭川きんに賃貸し、鶺鴒岩近くの土地を訴外田上みいに賃貸し、神楽石近くの土地を訴外成瀬やすに賃貸し、これら賃借人は右賃借地に参拝人休憩所用のお茶屋を建築し、依雲亭、かすみ亭、紫亭、相生亭あるいは秋月亭の名称で飲食店営業を行い、後継者(ただし、田上みいの相生亭を除く)において現在引続いて営業中であるが、右の者に対して被告筑波町が昭和初年頃から昭和一九年までの間右休茶屋に関する家屋税、同附加税、並びに営業税を徴収して来た事実が認められ、右認定を左右するに足る証拠はない。

しかしながら、一方成立に争いのない甲第七号証の一により真正に成立したと認められる甲第七号証の二、いずれも成立に争いのない同第一〇号証及び同第二八号証に、証人来栖鶴太郎(一、二回)、泉栄一(一回)の各証言を綜合すると、真壁郡紫尾村大字羽鳥字深峯一五五八番の山林は、もと旧羽鳥村民五七名の共有であつたが、右村民は大正一三年頃訴外筑波鋼索鉄道株式会社に対し右共有地の一部三町七反余を売却した。その際右共有者らは右共有地は筑波山頂まで延び、その南側の線は東西にわたる参詣道に沿つているものとして、訴外会社側の立会を求め、山頂の翁石から神楽石、石碑ある地点、稲荷石、中央小木立つ塚、帽子石、男体山西側の無名石を連結した線を基準として実地につき測量した上、右土地を一五五八番の一、二、三、四、五及び六と分筆し一五五八番の二、四及び六の三筆合計三町七反余として売却し、一五五八番の三及び五はいずれも羽鳥部落方面から山頂に至る四間巾の道路として使用するため売り残したこと、右売却の三筆はその後昭和三一年七月訴外会社から訴外筑波山神社に贈与されたこと、そして訴外筑波山神社は爾来右山林三筆に対する固定資産税を原告真壁町に納入している事実が認められる。右認定に反する証人鈴木達衛及び飯村四郎(一回)の各証言は信用しない。

そうすると、筑波山頂の原被告主張線内の地域において休茶屋を営業する者(もつとも、休茶屋を営業する者は筑波町に居住し、休茶屋は出店として経営している)に対する関係においては被告筑波町において課税権を行使し、係争線内における土地所有者に対する関係においては原告真壁町が課税権を行使してきたことになるわけであるが、右の状況は、原被告のいずれかが排他的に行政権を行使した関係にあるとはいえないから、右行政権行使の如何は本件境界確定について決定的な資料となるものではない。もつとも、土地所有関係を律する面における行政権行使の方が営業関係を律する面における行政権行使よりもむしろ永久的であり基礎的であると考えられないでもないし、その上、前認定のように筑波山上で休茶屋を経営する者は筑波町に居住し、休茶屋はいずれも出店であること、そして後記認定のように従前から筑波山頂附近は下館税務署あるいは土浦税務署いずれの管内に属するかに疑義があつたが、昭和初年頃当時の両税務署長が話し合いで土浦税務署において徴税することに取り決めたものであることなどを併せ考えると本件境界について原告主張線をもつてしても必ずしも不当ではないということができるであろう。

(二)、又その方式、趣旨からして公文書であり真正に成立したと認められる甲第二三号証に現地検証の結果(一、三、四回)を対比すると、笠間営林署はその管轄区域に関係のある原告真壁町及び被告筑波町間の筑波山頂附近における境界については、原告の主張線とほぼ同一線をもつて両町の境界であると観念した上笠間事業区の事業計画を樹立し、これを遂行してきたものであることが認められ、又成立に争いのない甲第六号証の一により真正に成立したと認められる同号証の二に現地検証の結果を対比すると、下館税務署も亦その管轄区域に関係のある原被告間の境界についてこれを原告の主張線にほぼ近い線をもつて両町の境界と観念した上これを基礎として所管の行政活動を行つてきたものであることが推認される。もつとも証人大塚金次郎(二回)の証言によると、従前から筑波山頂附近は下館税務署あるいは土浦税務署いずれの管内に属するか問題があつたのであるが、昭和初年頃当時の両税務署長が筑波山頂の現地に赴いて協議の結果、筑波山頂附近に関しては土浦税務署において徴税をすることに話が纒つたことがある事実が認められるけれども、右の事実はなんら右認定の妨げとなるものではなく、他に以上の各認定を左右するに足る証拠はない。

六、そこで、行政権行使の便益等将来の展望的見地からして筑波山頂の係争区域に対し原告被告いずれが行政権を行使するのを妥当とするやの点について検討する。

証人鮭川健次、田上憲、海老沢要吉、関千代、梅田長造、吉原秀雄、大塚金次郎(一、二回)及び青木芳郎(二回)の証言を綜合すると、筑波山頂において休茶屋を営業する者は殆んど筑波山麓に居住する筑波町の住民であること、筑波山の登山、参拝は従来表筑波たる筑波町側からするのが本道であり、この点に関しては将来も早急に変動を生ずることはないものと推測されること、大正の末筑波山鋼索鉄道株式会社が筑波山神社脇から山頂までケーブルを架してからは表筑波からする登山、参拝は一層便利となり、又それに伴い被告筑波町側において観光開発がなされて来たのに対し、真壁町側は従来裏筑波とされ、登山、参拝道もいわば間道とされ、開発も遅れていた事実が認められる。右認定を左右するに足る証拠はない。

しかして、右事実からみると、一見筑波山頂における諸施設の利用者は被告筑波町側において課税権等の行政権を行使するを便益とするであろう如く見えるけれども、右の事情だけでは、原告真壁町が筑波山頂のうち原告主張の区域に属する部分について行政支配をすることを不当とし、被告筑波町によつて右の部分についても行政運営がなされなければならないものと速断することはできない。他に筑波山頂の係争区域に対し原被告いずれが行政権を行使するを相当とするやに関して拠るべき資料は存しない。

されば、将来の展望的見地からすれば、原被告いずれが筑波山頂の係争区域に対し行政権を及ぼすのが相当であるかは、にわかに判定し難く、右の点から本件境界線につき原被告いずれの主張を相当とするやは決せられないのである。

七、本件現地検証の結果(一、三、四回)、及び鑑定人菊池英雄の鑑定の結果(一、二回)を綜合すると、原告主張の(1)、(七)、(六)、(五)、(四)、(三)、(二)、(一)、(八)、(九)、(十)、(十一)、(十二)、(十三)、(十四)及び(30)の各点相互の位置並びに距離関係は別紙図面表示のとおりであることが認められる。

八、以上述べて来たところを綜合すると、原告と被告との筑波山頂附近における境界は女体山一等三角点を基点として測定された別紙図面表示の(1)、(七)、(六)、(五)、(四)、(三)、(二)、(一)、(八)、(九)、(十)、(十一)、(十二)、(十三)、(十四)及び(30)の各点を順次連結した線であると確定するのが相当である。

よつて訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条を適用し、主文のとおり判決する。

(裁判官 和田邦康 諸富吉嗣 浅田潤一)

(別紙図面)<省略>

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